2009年05月18日

小谷城

 GWを利用し、琵琶湖周辺の城及び城跡をいくつか訪ねました。
この時の旅行全般に関しては、そちらの記事を見て頂くとして、
GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
今回はお城記事です。

5月3日、北近江の小谷城跡に行ってきました。
 小谷城は、織田徳川軍と浅井朝倉軍が戦った姉川の合戦や、信長の妹お市の方が嫁いだことで有名な浅井長政の居城で、日本五大山城の一つです。 ちなみに五大山城とは、北から越後の春日山城(上杉謙信
小谷城01_戦国資料館)、能登の七尾城(畠山氏)、小谷城、近江の観音寺城(六角氏)、出雲の富田城(尼子氏)です。 本格的山城に足を踏み入れてみました。
 小谷山のふもと、清水谷に小谷城戦国歴史資料館があります。
先ずは、そこへ行きました。
                      

 小谷城戦国資料館には、小谷城と浅井氏の資料また姉川の合戦の絵図などが展示されています。小谷城(小谷山)の地理模型もあり、小谷城の縄張り全貌が立体的に解ります。この資料館のある清水谷も城内で、家臣団の屋敷があったそうです。
 そういえば、ここの直ぐ近くの原っぱに古い屋敷の門のようなものがポツンとありました。しかしどうやらあれは偽物、最近の村祭りの名残りだそうで、紛らわしいから片付けろと言っているのに、なかなか取り払ってくれないと、資料館の方がぼやいていました。(笑)
 資料館で小谷城の案内図をもらい、城跡へ登るルートを教わりました。通常は城山の林道を途中までマイカーで入れるそうなのですが、GWとあって人出が多いので、この日はふもとからシャトルバスが出ていました。教わったとおり、小谷寺近くの休憩所(駐車場?)に行き、管理のおじさんにシャトルバスのことを聞くと、ご親切にご自分の携帯電話で発着時刻を問い合わせて教えてくれました。
 待つことしばし、下山のお客を乗せたシャトルバスが下りてきました。ハイエースクラスのワンボックスカーです。下山客と入れ替えに乗り込みました。車が入れるのは金吾丸跡まで、そこから先は山道を歩いて登ることになります。車はすれ違いのできそうもない細い林道を登っていきます。シャトルバスに乗れてラッキーでした。
 金吾丸跡付近まで来ると、マイカーも道の脇にかなり停めてあります。シャトルバスを降りて、さあ山登りです。登山道の入口付近に大きな城跡案内看板が立てられています。ここにもおじさんがいて、看板を指しながら、本丸まで何分、奥の山王丸まではどうとか、さらにその先に六坊と頂上の大嶽城跡までを含め全部が城山、というような説明をしていました。
 とりあえず本丸目指して足を踏み入れ登り始めました。
小谷城02~04.JPG 最初に現われるのが「番所跡」。
小谷城の主要道である登山道と清水谷中程からくる虎ヶ谷道の終点の位置にあり、小谷城主郭の入口にあたる曲輪で、ここから本格的な城郭となりま
小谷城05_馬洗池跡す。
 番所跡のすぐ上にある曲輪が「御茶屋敷跡」、優雅な名前ですが軍事施設です。
←馬洗池
 さらに登って次に現われるのが「馬洗池跡」と「御馬屋跡」です。
この御馬屋跡から清水谷側の斜面に幅約2mの帯曲輪がありますが、今回はそちらには行きませんでした。本丸辺りから見ると急な谷側斜面の途中にそれがあるのが見えるのですが、そこへの入口がわからなかったのです。この記事を書くに当たって資料を見て御馬屋跡から入れることが解りました。
 写真の場所を示す石碑は、もちろん当時のものではなく後に置かれたものでしょうけど、まあそこへ行ったという証拠写真のつもりで撮ってきました。林に覆われた山の尾根道です。要所要所に崩れかけた野面積み
小谷城06_08~10.JPGの石垣が見られる他に建造物は何も残っていません。それでも各曲輪跡から城の縄張りをうかがい知ることができます。誰もが思う感想は、こんな所に攻め登るのはごめんだ、という気持ち
小谷城07_首据石でしょう。
←首据石
 次に現われたのは首据石です。天文2年(1533)京極氏の被官であった今井秀信の首をここにさらしたと伝えられています。
 今井秀信?知らないなあ‥、コジューローもです。せっかくですからここで小谷城に関して歴史のお勉強をちょっとしましょう。
 浅井氏三代と言われています。小谷城は初代亮政(すけまさ)が大永年間(1521〜1528)に築城しました。それまで近江の国は、江南を六角氏、江北は京極氏が守護大名として覇を競っていました。大永3年(1523)京極氏に跡目争いがおこりました。次男高慶を立てようとする執権上坂信光派に対し、長男高延を擁して、その勢力を一掃し、小谷山上に築城し、京極父子を迎えたのが始まりとされています。それより二代久政に至るまで、江南の六角氏と戦ったり、治水や配下の武将たちの掌握など、苦心の末に確固たる力をつけていきます。
 今井秀信は浅井亮政とともに京極高延を擁立し反対派を追放しますが、後に六角氏と通じ、亮政に誘殺され、上記のように首をさらされたということです。
 三代長政は、永禄3年1(1560)野良田で二倍半に及ぶ六角勢を打ち破り一躍勇名を馳せて家督を相続します。さらに翌永禄4年、美濃の斉藤氏を見影寺川に敗り、実力をしめします。これが上洛を目指す織田信長の関心を産み、その妹お市の方との縁組が成立します。元亀元年(1570)4月信長が越前の盟友朝倉義景を攻めたとき、長政は意を決して江越国境にこれを挟撃します。信長は辛くも窮地を脱出、同年6月、徳川家康の援軍を得て近江に侵入します。姉川をはさんで浅井朝倉軍がこれを迎え撃ち、6月28日卯刻(午前6時)姉川の合戦の火蓋が切られます。前半浅井軍有利に戦いを進めるも、朝倉勢が崩れると形勢は逆転、浅井勢も小谷城へと敗走します。信長は小谷城の堅固さを考慮しこの時は城攻めを断念します。しかし、天正元年(1573)越前朝倉を先に滅ぼし、完全に孤立した小谷城もついに落城します。小丸にあった父久政は自害、長政も本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡します。この時、お市の方と3人の娘が羽柴秀吉により救出され、後の歴史に大きく係わって行きますね。この辺のことを書き始めると尽きません。このへんでやめにしておきますが、あの信長でも小谷城は簡単には落とせなかったようで(3年かかっています)この経過なども実に興味深いので‥、
‥おっと、やめておきます。興味ある方は調べてみて下さい。
小谷城11_大広間跡 で、その「赤尾屋敷跡」への分岐を過ぎさらに登ると「桜馬場跡」にでます。かなり広く奥の方へ行くと眺望がパンと開けます。(そこから琵琶湖を撮った写真が下の方にあります)
 そしてその上が「大広間跡」、別名「千畳敷」と呼ばれるところです。長さ
小谷城12_本丸跡約85m、幅約35m。ここには建物跡が検出されている他、井戸跡とこれに接続する石組みの溝跡、また蔵跡も確認されているそうです。大広間跡の北に本丸跡があります。
←大広間北側、本丸跡の石垣
この石垣の上が本丸跡で大広間側で
小谷城13_本丸跡しか登り降り出来ません。写真の立て札にもあるように、鐘丸ともいうようです。彦根城の西の丸三重櫓はここから持っていったものだという事ですね。次の日、彦根城にも行ってきました。この三重櫓の中にも入ってきましたが、結構大きかったです。彦根城別記事にし
小谷城14_本丸より大広間跡ますので、そちらもよろしく。
←本丸から大広間を見る。
 本丸の北側は大堀切りで、崖のようになっています。とても降りられそうにないので、大広間側の登ったところから降りて本丸の台地を迂回して先に進みます。右側から迂回しようとしたら行き止まり、引き返して左側から迂回し直します。やっぱりお城です。建築物が何も無いのでただの山に見えますが、これなどあきらかに人工的な
小谷城15_16_大堀切跡.JPGトラップです。
←大堀切跡
 本丸を迂回したら大堀切の下にでました。 凄い!山をこんな風に切り取っ
小谷城17~20.JPGてしまうのだから。
 とりあえず本丸までと登ってきましたが、まだ行けそうです。先に進むことにしました。
 大堀切の北側にあるのが「中丸」で、3段になっている曲輪です。城中の井戸の一つである刀洗池という小さな池があります。水は無く小さな窪みだけがありました。
 中丸からさらに一段上がった所が「京極丸」です。大広間に次ぐ広さがあります。京極氏の屋敷があったところと言われていますが、京極氏は亮政の頃は神照寺に居て、久政、長政の頃は坂田郡河内城に居たそうです。まあこんな山の上での生活は不便でしょうから、通常は下界に居たのでしょう。殿様だって通常は下(清水谷あたり)に居たのですから。でも姉川の合戦以降の3年間は浅井一家は山の上の生活が多かったかも知れませんなあ。
 京極丸の北にあるのが「小丸」です。長政の親父どの、浅井久政が自害した所ですね。
小谷城21_山王丸跡 さらに登ると「山王丸跡」に出ます。ここの石垣には比較的大きな石が使われています。4段からなる山王丸は小谷城の詰めの丸で、規模は本丸を上回ります。山王権現が祀られていたとの事ですが、山王権現は、現在小谷神社と名前を変え小谷寺の一角で祀られ
小谷城22_23_山王丸跡.JPGているそうです。
 とうとう小谷城主要部の最奥まできました。ここから先は六坊を経て大嶽城跡へと続きます。反対側からハイカーが1人歩いてきました。聞くと、清水谷沿いに六坊へ登り、さらに大嶽まで行
小谷城24_山王丸から大嶽を望むってきたと言います。六坊から大嶽の登りがかなりきつかったとのこと。
 ここ山王丸から清水谷を挟んで、岩肌の見える大嶽の山が見えます。う〜んやっぱりあそこまではとても行けないなあ。今回はこの山王丸で引き返すことにしました。
 ちなみに大嶽城には援軍の朝倉勢が詰めていたそうです。浅井氏の家臣浅見対馬守の織田方への寝返りにより、小谷城より先に落城しました。また、当初の小谷城は現在の本丸のある尾根ではなく、小谷山の最高峰この大嶽にあったとのことです。
小谷城25_御局屋敷←上から見る御局屋敷跡
 来た道を引き返し、山を下ります。本丸付近で清水谷側の少し下がったところに曲輪跡があるのを見つけました。御局屋敷跡です。行ってみようと思ったのですが、どこから入るのかわかりません。先に書いた御馬屋跡からの帯曲輪の一つであったようです。
小谷城26_桜馬場より琵琶湖を望む
←桜馬場跡からの絶景
 桜馬場跡で御局屋敷跡への入口を探しに奥の方へ行くと琵琶湖の見える絶景点にでました。城跡は林に覆われてほとんど景色は見れなかったのですが、ここは良い景色です。やっぱり高い所は気持ちがいい!!竹生島も見えます。
 シャトルバスを降りた登山道の入口まで来ました。下りのシャトルバスの出発時刻までまだ少しあるので、金吾丸跡に行ってみることにしました。金吾丸跡は登山道と反対の方角へ少し登った頂にあります。方角からしてきっと眺めが良いだろうと期待して登ったのですが、やはり木が邪魔をして今一でした。
 登山道入口まで戻り、シャトルバスが来るまで城跡案内看板の前で係りのおじさんとしばし雑談。御局屋敷跡の話になり、あそこはお市の方が居たところという説もあるが実は違う。その理由は‥、というところでバスが出るぞという知らせがあり、この話し最後まで聞けませんでした。興味深い話だっただけに残念。
日本100名城スタンプ_小谷城 以上で小谷城見聞録は終了です。
長々とお付き合い、ありがとうございました。

←日本100名城スタンプ
 小谷城


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