2009年05月22日
長浜城
GWを利用し、琵琶湖周辺の城及び城跡をいくつか訪ねました。
この時の旅行全般に関しては、そちらの記事を見て頂くとして、
⇒GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
今回はお城記事です。
5月3日、琵琶湖のほとり長浜城に行
ってきました。
この日、同じ湖北にある小谷城で山登りをして来たので、長浜に着いたのは日も暮れかかった夕方になってしまいました。長浜城は既に閉館、中には入れませんでした。
この時の旅行全般に関しては、そちらの記事を見て頂くとして、
⇒GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
今回はお城記事です。
5月3日、琵琶湖のほとり長浜城に行
ってきました。
この日、同じ湖北にある小谷城で山登りをして来たので、長浜に着いたのは日も暮れかかった夕方になってしまいました。長浜城は既に閉館、中には入れませんでした。
まあ長浜城は模擬天守ですし、日本100名城スタンプもありませんから、さほど残念でもないのですが、中は歴史博物館になっていて、時間があれば入ろうとは思っていました。各地のお城の博物館には、なかなか面白い展示があったりするものですからね。
さて、ここで模擬天守とは何ぞや?と思われる方もいらっしゃると思いますので、ちょっと知ったかぶりをさせて頂きましょう。
現在、当時のまま残っている天守は全国で12ヶ所のみ、これを現存天守といいます。それ以外の天守は後に建てられたものとなりますが、これは、復元天守、復興天守、模擬天守の3つに分類されます。外観を写真などの資料に基づいてほぼ旧状通りに再建したのが復元天守、そこに天守があったのは確かだが外観が資料に基づかないものが復興天守、もともと天守がない城なのに天守風に建てられたものが模擬天守だそうです。
でもコジューローの地元の小田原城はちゃんとした資料をもとに外観を似せて建てられていますが復興天守といわれますし、秀吉の長浜城にだって天守があったはずで(天守跡と人柱の碑があるようです。)、なのに模擬天守あつかいです。
もっとも長浜城はどんな城だったのか、分からないことだらけらしいので、模擬と言われても仕方がないのかも知れません。まあ犬山城や伏見城を参考に設計してでっち上げた天守のようですから。
さて天守はまあ良いとして、長浜城そのものの解説も少ししましょう。
築城は言わずとしれた豊臣秀吉、当時は羽柴秀吉になったばかりのころですな。小谷城攻めで功のあった木下藤吉郎秀吉が、信長にこの地をもらい、城を築き今浜を長浜と改名しました。天正3年(1575)です。大名になって名前も羽柴に変えました。織田の重臣、丹羽長秀と柴田勝家の名字をくっつけたようです。流石にちゃっかりしてますな。
天正10年(1582)信長亡き後、清洲会議で、長浜城は柴田勝家の甥の勝豊のものとなります。しかし秀吉はすぐに勝豊を降伏させ、賤ヶ岳の戦いの拠点にします。
その後、山内一豊、内藤信成、信正が城主となりますが、豊臣滅亡後取り壊されます。長浜城の石垣や建材は、彦根城築城に使われたそうで
す。彦根城のあの天秤櫓は長浜城の大手門だったとか、また西の丸三重櫓は長浜城天守だったとか言われています。‥あれ?西の丸三重櫓は小谷城天守だったんじゃなかったかなあ‥。するとあの三重櫓は、小谷城から長浜城へ、そしてさらに彦根城へという事なんじゃろうか? そういえば彦根城築城の時には、石田三成の佐和山城も取り壊しているなあ‥。
おっとこの辺は彦根城をUPするときに書くことにします。(たぶん)
という事で、今回は長浜城でした。
GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
【お城】カテゴリー 内部リンク
さて、ここで模擬天守とは何ぞや?と思われる方もいらっしゃると思いますので、ちょっと知ったかぶりをさせて頂きましょう。
現在、当時のまま残っている天守は全国で12ヶ所のみ、これを現存天守といいます。それ以外の天守は後に建てられたものとなりますが、これは、復元天守、復興天守、模擬天守の3つに分類されます。外観を写真などの資料に基づいてほぼ旧状通りに再建したのが復元天守、そこに天守があったのは確かだが外観が資料に基づかないものが復興天守、もともと天守がない城なのに天守風に建てられたものが模擬天守だそうです。
でもコジューローの地元の小田原城はちゃんとした資料をもとに外観を似せて建てられていますが復興天守といわれますし、秀吉の長浜城にだって天守があったはずで(天守跡と人柱の碑があるようです。)、なのに模擬天守あつかいです。
もっとも長浜城はどんな城だったのか、分からないことだらけらしいので、模擬と言われても仕方がないのかも知れません。まあ犬山城や伏見城を参考に設計してでっち上げた天守のようですから。
さて天守はまあ良いとして、長浜城そのものの解説も少ししましょう。
築城は言わずとしれた豊臣秀吉、当時は羽柴秀吉になったばかりのころですな。小谷城攻めで功のあった木下藤吉郎秀吉が、信長にこの地をもらい、城を築き今浜を長浜と改名しました。天正3年(1575)です。大名になって名前も羽柴に変えました。織田の重臣、丹羽長秀と柴田勝家の名字をくっつけたようです。流石にちゃっかりしてますな。
天正10年(1582)信長亡き後、清洲会議で、長浜城は柴田勝家の甥の勝豊のものとなります。しかし秀吉はすぐに勝豊を降伏させ、賤ヶ岳の戦いの拠点にします。
その後、山内一豊、内藤信成、信正が城主となりますが、豊臣滅亡後取り壊されます。長浜城の石垣や建材は、彦根城築城に使われたそうで
す。彦根城のあの天秤櫓は長浜城の大手門だったとか、また西の丸三重櫓は長浜城天守だったとか言われています。‥あれ?西の丸三重櫓は小谷城天守だったんじゃなかったかなあ‥。するとあの三重櫓は、小谷城から長浜城へ、そしてさらに彦根城へという事なんじゃろうか? そういえば彦根城築城の時には、石田三成の佐和山城も取り壊しているなあ‥。
おっとこの辺は彦根城をUPするときに書くことにします。(たぶん)
という事で、今回は長浜城でした。
GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
【お城】カテゴリー 内部リンク