2009年07月13日
近江八幡城
今年の5月GWに行った、琵琶湖周辺の城及び城跡の記事も、ようやくラストの城となりました。
この時の旅行全般に関しては、そちらの記事を見て下さい。
⇒GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
では、小谷城、長浜城、彦根城、
安土城、観音寺城に続く第6弾。
「近江八幡城」です。
←八幡山ロープウェイより見る
近江八幡の町並み
この時の旅行全般に関しては、そちらの記事を見て下さい。
⇒GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
では、小谷城、長浜城、彦根城、
安土城、観音寺城に続く第6弾。
「近江八幡城」です。
←八幡山ロープウェイより見る
近江八幡の町並み
(本丸跡にある) と、張り切って書き始めたは良いけ
↓村雲御所瑞龍寺 れど、この「近江八幡城」は日本城郭協
会認定の100名城には入っていません。天守も何もない城跡なので、特に城を見るという意識もなく、単なる観光のつもりで八幡山に登りました。むろんブログに上げるつもりもなかったのです。
ですがロープウェイで登ってみると、そこは石垣だらけの確かな城郭でした。山頂の本丸を中心に北の丸、西の丸、出丸などが取り巻く山城です。前日、前々日と他の城山を歩き回ってきたコジューローは、疲労困ぱいぎみで、観光気分で登ったこの山城の石段に、ひ〜こら状態となりました。
展望の良いところに出ると、ほっと一息。絶景に疲れも吹っ飛びます。
←西の丸跡より西方を望む
中央左湖畔の小山は岡山187.6m
その右上あたりに琵琶湖大橋がある
はずだか、かすんでわからない。
←北の丸跡より東方を望む
中央左側に見えるのが西の湖
その西の湖右端の上に見える小山が
安土城のあった安土山。
その後方が繖山で右の頂上付近に
観音寺城があった。
写真は以上で全部です。城カテゴリーでブログUPするなら、石垣のひとつも撮っておけば良かったと思いました。
このままでは、ちっともお城記事らしくないので、せめて近江八幡城の由来くらい書いておこうと思います。
近江八幡城は、豊臣秀吉の甥、秀次が築きました。後に殺生関白と呼ばれ、秀吉に腹を切らされた、あの豊臣秀次です。
秀次は、秀吉の弟秀長と共におこなった四国平定の功により、天正13年(1585)近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む八幡山(286m)に築城しました。18歳で近江八幡の領主となった秀次は、楽市楽座を行い、八幡掘を整備するなど豊かな町づくりを進めました。天正18年(1590)小田原攻めの軍功により、秀次は尾張・伊勢を与えられて、100万石の太守として尾張清洲城に移りました。代わって京極高次が2万8千石で八幡城主となりましたが、文禄4年(1595)京極高次が大津城に移り、八幡城は廃城となりました。同年、豊臣秀次は秀吉の命により高野山で自刃しています。
城がなくなっても、秀次が築いた城下町は、近江商人の町として江戸時代を通じて繁栄しました。近江八幡市は現在もその面影を残し、住む人や観光客に親しまれています。
ということで、近江八幡城でした。
観音寺城
安土城(その1) 安土城(その2)
彦根城(その1) 彦根城(その2)
長浜城
小谷城
GW旅行 琵琶湖 城めぐりの旅
【お城】カテゴリー 内部リンク
↓村雲御所瑞龍寺 れど、この「近江八幡城」は日本城郭協
会認定の100名城には入っていません。天守も何もない城跡なので、特に城を見るという意識もなく、単なる観光のつもりで八幡山に登りました。むろんブログに上げるつもりもなかったのです。
ですがロープウェイで登ってみると、そこは石垣だらけの確かな城郭でした。山頂の本丸を中心に北の丸、西の丸、出丸などが取り巻く山城です。前日、前々日と他の城山を歩き回ってきたコジューローは、疲労困ぱいぎみで、観光気分で登ったこの山城の石段に、ひ〜こら状態となりました。
展望の良いところに出ると、ほっと一息。絶景に疲れも吹っ飛びます。
←西の丸跡より西方を望む
中央左湖畔の小山は岡山187.6m
その右上あたりに琵琶湖大橋がある
はずだか、かすんでわからない。
←北の丸跡より東方を望む
中央左側に見えるのが西の湖
その西の湖右端の上に見える小山が
安土城のあった安土山。
その後方が繖山で右の頂上付近に
観音寺城があった。
写真は以上で全部です。城カテゴリーでブログUPするなら、石垣のひとつも撮っておけば良かったと思いました。
このままでは、ちっともお城記事らしくないので、せめて近江八幡城の由来くらい書いておこうと思います。
近江八幡城は、豊臣秀吉の甥、秀次が築きました。後に殺生関白と呼ばれ、秀吉に腹を切らされた、あの豊臣秀次です。
秀次は、秀吉の弟秀長と共におこなった四国平定の功により、天正13年(1585)近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む八幡山(286m)に築城しました。18歳で近江八幡の領主となった秀次は、楽市楽座を行い、八幡掘を整備するなど豊かな町づくりを進めました。天正18年(1590)小田原攻めの軍功により、秀次は尾張・伊勢を与えられて、100万石の太守として尾張清洲城に移りました。代わって京極高次が2万8千石で八幡城主となりましたが、文禄4年(1595)京極高次が大津城に移り、八幡城は廃城となりました。同年、豊臣秀次は秀吉の命により高野山で自刃しています。
城がなくなっても、秀次が築いた城下町は、近江商人の町として江戸時代を通じて繁栄しました。近江八幡市は現在もその面影を残し、住む人や観光客に親しまれています。
ということで、近江八幡城でした。
観音寺城
安土城(その1) 安土城(その2)
彦根城(その1) 彦根城(その2)
長浜城
小谷城
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