2011年11月19日

箕輪城

登城日2009年10月27日
 2009年秋、「北関東・城跡めぐりのついで旅」で訪れた3つ目のお城(城跡)が箕輪城です。今回は、その箕輪城を記事にします。
 関連記事⇒北関東・城跡めぐりのついで旅  足利氏館  金山城

01箕輪城石碑 前日、足利氏館と金山城を見学した後、伊香保温泉に一泊して、この日は榛名湖を経由して山を下り、箕輪城跡へとやってきました。箕輪城は、群馬県高崎市、榛名山の麓にあります。
 ラストに地図を載せておきましたので、ご参照のほど。 尚、いつもの事ですが、掲載画像はポインターを当てますと名称が現れ、クリックすると大きく見れます。  

 箕輪城は、ウィキペデアによると、‥1512年(永正9年) 戦国時代中期、当地を支配する長野業尚によって築かれた‥、と書かれています。でも続けて、‥1526年(大永6年) 業尚の子の信業によって築かれたという説もある‥、と書かれていてハッキリしません。現地で入手した資料(高崎市)には、‥長野氏に関する文書資料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。後の系図などから、築城者は長野業尚(なりひさ)(尚業)で、その後、憲業(信業)、業政、業盛の計4代に
02搦手口付近わたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています‥、とありますので、まあそういう事なのでしょう。
 ちなみに長野氏は、在原業平(平安時代初期の貴族・歌人。『伊勢物語』の
03搦手口より入って最初の分岐付近主人公とみなされている)の子孫といわれています。ですがこれは伝説にすぎないようで、そもそも日本の家系というのは、皇室と一部の公家を除いて、ほとんどが応仁の乱(1467)より前には遡れない、というのが事実らしいのです。大乱に乗じて勝手に誰々の子孫と名乗ってしまったというのですね。あの江戸将軍家の徳川家さえも新田系の源氏と名乗ってはいますが、真実は分かりません。戦国時代の発端となった応仁の乱は、日本の系図に大きな断層を作ってしまったんですね。

04二の丸 ‥と、話が脱線しましたので、箕輪城に戻しましょう。
 永禄年間(1558〜)、箕輪城のある西上野は、甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三つ巴の戦いの舞台となります。そんな中で、箕輪城主長野業政は関東管領山之内上杉家に最後まで尽くしていました。難攻不落を誇り奮戦してきた箕輪城も、永禄9年(1566)、武田軍によりついに落城します。この箕輪城攻めは、あの武田勝頼の初陣でも知られていますね。
 その後箕輪城には、武田の重臣内藤
05二の丸にあった復元想像図昌秀が入りますが、武田が織田・徳川によって滅ぼされると(天正10年(1582))織田信長の重臣滝川一益が入城します。しかしその年、本能寺の変が起きて織田信長が殺されると、滝川一益は入城から一月足らずで北条氏により追われてしまいました。そして箕輪城主となったのは北条氏一門の北条氏邦です。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉により小田原北条氏が滅ぼされると、北条氏に替わって関東に入った徳川家康の重臣、井伊直政が箕輪城の城主となりました。
 その後、井伊直政は慶長3年(1598)、城を高崎に移して、波乱の箕輪城は廃城となりました。

 箕輪城は城主がかわるなどを契機にして、何度も造り替えがなされているそうで、そのため現在残る遺構は、長野氏時代の城とはかなり異なっているようです。最後の城主だった井伊直政が居た頃の姿に近いだろうといわれています。
 もっとも大きな違いは、現在搦手口(からめてぐち)とされているところ
06二の丸から本丸へ向かう途中にあった100名城スタンプが、長野氏の時代には大手口だったこと。城の表裏が全く反対だったんですね。大手虎韜門(ことうもん)口近くの鍛冶曲輪には石垣も残っていますし、そこから三の丸方面に向けて石垣が発掘されています。長野氏のころはこちらが搦手側になりますが石垣はなかったでしょうから、これらは井伊直政の時代のものということですね。コジューローの想像ですが、井伊直政が城を改修する際、大手側はもとの城の構えがそれなりに出来ていたので、搦手側の方が改修しやすかったのではないでしょうか。それでこちらに石垣を造ったり大改修をして、大手にした‥、な〜んて勝手な想像ですが‥。
 実はコジューロー、今回その石垣の遺構を全く見ていないのです。折角訪れたのに、不覚でした。

 という事で、この辺で登城記に移って行きたいと思います。今回もラストの方にコジューローの城跡探訪ルート図を載せておきましたので、参考にしてください。

 榛名湖から高崎東吾妻線を南下してきました。途中で箕輪城への道標を見つけたのでそれに従って進むと、箕輪城搦手口に到着しました。街道沿いの駐車場(空き地?)に車をとめ、箕輪城跡と書かれた矢印のある道07本丸手前にて/本丸門馬出し・箕輪城石碑へ、歩いて行きました。箕輪城跡にはお城らしい建築物は何もないので、城跡に入るぞという意識がなければ、何の変哲も無い所に見えるし感じるでしょう。実際、その気持ちを持って足を踏み入れたコジューローでさえ、何の変哲なく感じられ、どこをどう見たら良いのかよく解りませんでした。ただ、遊歩道の案内図や、石碑と説明版が要所要所に設けられているので、それが頼りになります。
 とにかく、先ずは100名城スタンプをゲットしなければなりません。100名城
08本丸ガイドブックには、二の丸駐車場あたりにスタンプ置き場が設置されていると書かれているので、とにかく二の丸を目指して歩いて行きました。二の丸は搦手口から入って、最初の分岐を真っ直ぐ進み少し行ったところにあります。出た広場が駐車場で、柵のある正面の広場が二の丸のようです。駐車場には工事の車が置いてありました。工事関係の人を何人か見かけましたが、観光客らしい人は一人も見えません。前日の金山城と同じく、ここもコジューローの貸切状態のようです(前日の金山城
09本丸-御前曲輪間の空堀より御前曲輪を見るは雨でしたが、この日は晴れていましたけど‥)。スタンプ置き場は‥、とあたりを見渡しましたが、あるのは工事の小屋が一棟ぽつんとあるだけ、もちろんそこにはスタンプはありせん。前日の金山城もそうでしたし、観音寺城(滋賀県)のように、こんなところに‥と思
10御前曲輪える場所にスタンプが置かれていることもありますので、宝探しゲームの如くあたりを物色しました。でも見つかりません。仕方がないので、とりあえず諦めて、城跡見学を先にすることにしました。

11御前曲輪の井戸 先ずは本丸へと、北側の道へと足を進めます。と、その道端左側に緑色の木の箱を見つけました。100名城スタンプ設置所と書かれています。見つけました。こりゃ本当に宝探しだ!と思わず笑ってしまいました。木箱の蓋を開けると、中には城跡の案内チラシと四角いブリキの缶が入っていました。そしてブリキ缶を開けてビックリ。なんとスタンプの押された紙切れが沢山。でもスタンプ本体はありません。 あははは・・・。 コジューローは何だか愉快でたまりません。ヤッターと思ったらまだ先がある、このもどかしさ、まるでパソコンのアドベンチャーゲームのようです。落ち着いてそこに書かれた案内を読むと、100名城スタンプは、高崎市箕郷支所受付窓口にあるとのこと。でもわざわざそこへ行かなくても、ここにスタンプを押した紙を置いておくので、それを持って行きなさい‥。みたいな事が書かれていました。 そう言われて、ハイそうですかと従うコジューローではありません。が、まあ箕郷支所へは後で行くとして、万が一を考えてその紙切れも
12大堀切と土橋、向こう側は郭馬出1枚ゲットしておきました。(せこい!)
 これで、一先ず落ち着いて城跡見学ができます。本丸へと向かいました。

 本丸の手前で、箕輪城の大きな石碑が二つ、で〜んと置かれているところに出ました。道端には「本丸門馬出し」の
13土橋より大堀切を見る説明板がありましたので、ここはその馬出しの一部なのか、それとも本丸の一部なのか。大きな石碑の一つには箕輪城の歴史が刻まれていました。
 本丸に入ります。何かの催しの準備なのか、それとも催しが終った名残りなのか、木の柵やビニールシートで覆われた物が置かれていました。本丸の広場を通り抜け、その奥の郭へと入ります。御前曲輪です。御前曲輪は、本丸の詰めにあって、城の精神的な中心であったとのこと。落城の際、長野業盛が自刃した持仏堂があったとのことで
14郭馬出す。昭和2年に発見された古井戸は、深さ20m、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されたそうです。(どうして井戸の底に墓石が?‥長野氏自ら投げ入れたのか?それともその後の誰かの仕業か?戦国時代のしきたり??‥)
15木俣
 二の丸へと引き返してきました。二の丸には、箕輪城復元想像図という看板が立てられていました。その時は工事の車を見ていたせいか、復元工事がされていて、その完成予定図なんだろうなと感じました。でも、今思うにそれは
16三の丸間違いだったようです。その看板のある二の丸は、搦手口から真っ直ぐ入ってきた所にあるのですが、長野氏のころは搦手口が大手口だったので、その当時を想像して描かれた図、‥という意味のようです。そう解って見ると、この図にも興味が湧いてきます。

 二の丸から今度は南側へと足を進めます。「大堀切と土橋」という所にきました。この大堀切によって城は南北二つに区切られ、中央にある土橋一つのみで連絡しています。一方を失っても、もう一方で戦いを続けられるという仕組みで、こういうのを「一城別郭の城」というそうです。
 土橋を渡って「郭馬出し」に出ました。さらに進んで「木俣」。‥と、ここま
では覚えているのですが、その先どのルートを歩いたのか実はよく覚えていません。大手尾根口を目標にして歩いていたのですが、同じような雑木林の中をだらだらと歩くのもイヤになり、目的地を変えて三の丸方面へ行くことにしたのです。大手尾根口を目標にしたのは、とりあえず大手口には行って見たいと思ったからなのですが、大手尾根口は、あまりにも遠
17本丸堀の橋台く感じてヤメにしました。そこで三の丸方面に向けて引き返すことにしたのですが、同じ道をそのまま引き返したという記憶がないのです。そこで、木俣を一周ぐるりと回って、もと来た道へ戻るという形でルート図には描きました。その可能性はあります。でも覚えていない
18空堀(右側が稲荷曲輪、左側が新曲輪‥たぶん‥)し、証拠写真もないので確証はありません。 とにかく、木俣から戻って、郭馬出しを通り大堀切の土橋を渡り返しました。ちなみに木俣というのは、通路が二俣、三俣という具合にいくつかの方向に分かれているところをいうようですが、木俣という井伊氏の重臣の屋敷
19新曲輪があったから、ともいわれているようです。
 土橋を渡り返した所から、右へ行けばもと来た二の丸ですが、ここは左へ(西へ)進み三ノ丸へと歩きました。三の丸からそのまま西に向かえば、鍛冶曲輪を経て大手虎韜門口に出ます。しかしそちらには行きませんでした。今思えば、そちらこそ箕輪城の表玄関で、鍛冶曲輪の石垣など、見どころの遺構が見れたはずなのですが、その時はそれを知らず、ただ雑木林の山の中を案内板を頼りに歩いている状態でした。三の丸からは、空堀の底を歩いて本丸と御前曲輪の北側を回って、入ってきた搦手口へと出るつもりで、何も考えずに歩いていました。途中「本丸堀の橋台」のあるところを通り、この付近にも石垣の遺構
20高崎市箕郷支所にてがあったはずなのですが、それも見落としています。
 御前曲輪から降りてくる道と合流して、薄暗い森を抜け視界の開けるところに出ました。新曲輪の石碑があり、城の北側になります。右手の道を進みます。この道の右手の土手の上が稲荷曲輪と呼ばれるところなのでしょう。そのまま歩いて行くと搦手口から入ったところの分岐に出ました。

 これで、城跡見学は終わりです。搦
21日本100名城スタンプ16箕輪城手口から出て、駐車場に止めておいた車に乗って、100名城スタンプをゲットするために、箕郷支所へと向かいました。支所の受付で、無事スタンプゲット。箕輪城のパンフレットも手に入れました。支所の外には青い箕輪城ののぼり旗が何本も翻っていました。


          ↓ 箕輪城 今回の登城ルート図
22箕輪城ルート図


















23箕輪城地図










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         金山城



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