2011年12月12日

鉢形城

登城日2009年10月27,28日
 今回は、2009年秋、「北関東・城跡めぐりのついで旅」で訪れた4つ目のお城(城跡)、鉢形城です。
関連記事⇒北関東・城跡めぐりのついで旅
        足利氏館  金山城  箕輪城

   ↓ 鉢形城跡曲輪配置図    10月27日群馬県の箕輪城を出て、
01鉢形城歴史館前の案内板埼玉県寄居町の鉢形城に着いたのは、もう夕方近くでした。鉢形城歴史館にかろうじて入館できた時刻ですから、たぶん午後4時ほんの少し前だったのだと思います。鉢形城歴史館の受付で100名城スタンプをゲットし、館内をざっと見学しました。城跡を歩くのは翌日にして、その晩は寄居のかんぽの宿に宿泊しました。                   

 鉢形城についてコジューローの知っていることは、戦国時代小田原北条氏の支城の一つで、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めの時に落城した‥、という程度のことでした。実際に城跡に訪れて、案内板の解説などを読んで〔写真20〕もう少し詳しく知ることになったのですが、この記事を書くにあたって、また少し調べてみました。‥ということで、先ずは鉢形城の歴史について少し書きます。

【鉢形城の歴史について】
 鉢形城は、文明8年(1476)、長尾景春が築城したとあります。
 しかし、” 『新編武蔵風土記稿』によれば、はじめ源経基によって築城され、のちに畠山重忠が在城したといわれるが確証はない。” というような記事もインターネットで見つけました。源経基といえば平安時代中期、平将門の乱でその名に覚えがあります。まあこの説は確証がなく眉唾ものということですが、時代がそこまで遡れることになんだか歴史のロマンを感じます。

 さて、長尾景春ですが、「長尾景春の乱」というのが知られているようです。コジューローは長尾と聞くと越後の長尾景虎(上杉謙信)を思い浮かべてしまうのですが、ルーツをたどれば同族で、どちらの長尾氏もそれぞれ越後と関東の上杉氏に仕えていました。景春は景虎よりも少し前の時代で、影春の乱は、まだ小田原北条氏が出現する前の出来事です。
 長尾景春の父親は、関東管領山内上杉氏の家宰だったのですが、父親の死後その職が景春に回ってこなかったことに腹を立て、蜂起したのが長尾景春の乱です。その拠点として築城したのが鉢形城で、景春は山内上杉顕定を相手に暴れまわります。しかし、文明10年(1478)扇谷上杉家宰の太田道灌に攻められて鉢形城は落城。鉢形城には上杉顕定が入ります。景春はなおも秩父方面で抵抗を続けますが、文明12年(1480)、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、古河公方足利成氏を頼って落ち延びていきました。
 景春の乱は終息しました。この乱の背景には、古河公方足利成氏と、山内、扇谷の両上杉、及び幕府から派遣された堀越公方足利政知との抗争(享徳の乱)があります。京で勃発する応仁の乱よりも前に、関東では騒乱が起こっていたわけですが、景春はこれを巧みに利用して暴れまくりました。そして、この景春の乱の終息と共に、30年にわたって繰り広げられたこちらの乱も、和議により終息していきました。しかし、世の中は既に幕府を中心とする秩序が薄れ、戦国の世と化していきます。
 
 文明18年(1486)景春の乱で功のあった太田道灌が主君扇谷上杉定正によって謀殺されてしまいます。そして長享元年(1487)、山内家と扇谷家が決裂、長享の乱と呼ばれる両上杉家の抗争に突入します。没落していた長尾景春は扇谷家に味方して再び山内家と戦うことになりました。
 長享2年(1488) 扇谷上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めましたが城を落とすまでには至りませんでした。そして明応3年(1494)再度鉢形城の顕定を攻めようと、今度は伊勢宗瑞(北条早雲)とともに出陣しますが、定正は荒川渡河中に落馬して死んでしまいます。 北条早雲はその前年の明応2年(1493)、伊豆の堀越公方を滅ぼし、さらに相模へと進出していました。

 永正6年(1509)上杉顕定は越後に攻め入ります。この侵攻は、顕定の弟で越後守護だった上杉房能が守護代の長尾為景(この人は上杉謙信の父親です)を主力とした上杉定実軍に追われて自刃したことへの仕返しという事です。が、その時は長尾為景と上杉定実を越中に追放したものの、翌年、為景らの反攻に遭い、敗北して自刃してしまいます。
 顕定の後を継いで山之内上杉家の当主となり関東管領の職についたのは、養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)です。顕実も鉢形城を拠点としました。しかし永正9年(1512)、同じ顕定の養子であった上杉憲房に攻められ鉢形城は落城。顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失います。憲房は顕定と共に越後に遠征していましたから、帰還して、同じ養子の顕実が当主となっていることに反発し、内乱となったことは考えられることです。
 永正12年(1515) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継ぎました。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の北条氏綱(早雲の息子で北条氏二代目)、甲斐の武田信虎(武田信玄の父親)などとの長年にわたる抗争のなか、大永5年(1525)病没します。養子の上杉憲寛が後を継ぎますが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が当主となり、関東管領の職につきます。

 天文15年(1546) 有名な川越夜戦により、山内扇谷両上杉は北条氏三代北条氏康に敗戦し没落します。そして、これに勝利した北条氏が武蔵国における覇権を確立しました。上杉憲政はその後、越後へと逃れて行きます。
 永禄7年(1564) 氏康の三男北条氏邦が鉢形城へ入城し(上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が迎え入れたとあります)、以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となりました。鉢形城はその後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっていて、永禄12年(1569)に武田信玄、天正2年(1574))には上杉謙信の攻撃を受けています。

 そして天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻めが始まります。鉢形城は、前田利家、上杉景勝らの北国勢(真田昌幸、信幸親子もこれに加わります)、それに徳川家康配下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍 3万5千(5万とも言われています。北国勢のみで3万5千、それに浅野勢らが加わって総勢5万)に包囲され、攻撃を受けます。北条氏邦は、開戦前の小田原評定では出撃論を主張しますが、籠城策がとられることに決し、鉢形城に戻り3千の兵で守備したと言われています。約1か月の籠城戦を戦いましたが、本田忠勝に大砲を撃ち込まれるなど、城内の被害が甚大となり、ついに開城となります。
 その後、徳川家康が関東に入り、この地域は代官による統治がなされ、鉢形城は廃城となりました。

戦国時代を通して、正に波乱万丈の歴史をもつ鉢形城ですね。
  う〜ん、ロマンだぁ!
ということで、鉢形城の歴史については終わりで、次はコジューローの
登城記です。

【鉢形城コジューロー登城記】
 10月28日、朝から良い天気です。寄居のかんぽの宿を出て、鉢形城へ行く前に長瀞ライン下りなるものを体験してきました。鉢形城の側面下を流れる荒川の、ちょっと上流が長瀞です。そのまま川を下って鉢形城へ行ければ最高なのですが、それは出来ないので、船から降りてまた車で鉢形城へと向かいました。
 前日も来た、鉢形城歴史館の駐車場に車をとめました。歴史館は前日に見学を済ませているので、この日は城跡見学です。歴史館の裏手から深沢川に架かる橋を渡って、城跡へと入っていきました。
 今回も記事の終わりに、この日歩いたルート地図(航空写真による)を載せてありますので、必要に応じて参照してください。ルート地図の記事にある< >つきの番号は、掲載写真の番号です。掲載写真はポインターを置くと、番号と名称が現れ、クリックすると別ウインドウで大きく見ることが出来ます。(もうご存知ですかね(笑))この後の記事中にも< >つき番号を入れて、参照できるようにしておきますね。

02深沢川の橋(歴史館裏手) 深沢川は、鉢形城の北端で荒川と合流しています。鉢形城はこの荒川と深沢川に挟まれた、天然の要害地に築かれていたという事ですね。今回は深沢川はこの橋<02>の架かっている付近しか見ませんでしたが、深沢川<03>は渓谷をなしていて、鉢形城のなかで
03深沢川はこの付近が一番緩やかなところのようです。(他の場所も見てみたかったなあと、今思います。) 深沢川の森を抜けたら、凄い形の大木が目に入ってきました。寄居町指定天然記念物のエドヒガン桜<04>です。ここでもう一本の深沢川からくる道と合流して、城の中
04鉢形城の桜・エドヒガン(町指定天然記念物)心部へと向かいます。
 車道に出ました。この道路の向こう右側が本丸方面で、左側が二の丸、三の丸、大手方面になります。いきなり城の中心部に割って入ったかたちです。今はコジューローにもそれが分かったので、鉢形城の縄張りが理解できるのですが、その日現場に立ったコジューローには、曲輪の配置がテンテンバラバラに感じて、だだっ広いだけでどういう城なんだか理解できませんでした。(前日、歴史館でビデオを見て城の構造はわかっていたつもりだったのですが、やっぱりだだっ広くて‥)ちゃんと大手から入れば、もう少しイメージが出来たのだろうと思いますが、歴史館の裏手から入ったので、こういう事態になったわけです。(前回の箕輪城も、搦め手から入って失
05城山稲荷神社鳥居敗しました。)初めて訪れる城は、大手から入るのが基本なのかも知れません。まあ反省はこれくらいにして、先に進めます。
 車道を渡って先ずは二の丸方面へと足を踏み入れました。鳥居<05>をくぐって坂道を上りますが、ここは城山稲
06二の丸荷神社の参道なのでしょう。左側一面が二の丸<06>で、その前方奥に土塁<07>と柵が見えます。その土塁の向こう側、一段上がったところが三の丸のようで、二の丸よりも三の丸の方が高いところにある感じがして、少々違和感を覚えました。坂を上りつめ、道は神
07二の丸より三の丸、伝逸見曲輪方面の土塁を望む社の手前から神社を迂回するように裏に回って、先ほど見た土塁の端へと出ます。神社の裏は崖になっていて、そこから下の道路と荒川を見下ろすことができました。<08>
 土塁の手前は空堀になっていて、中に畝が一条だけありました。<09>北条
08城山稲荷神社付近より荒川を見下ろす氏の城独特の畝掘りですが、山中城などに比べると、かなりさっぱりしています。でも規模はなかなかに大きい。空堀に架かる木の橋<10>を渡り、三の丸へと入ります。<11>右前方の少し高くなったところが伝秩父曲輪で、水たまりの様な池と復元された四阿(あずま
09三の丸の土塁と堀と畝や)<12>があります。左の低いところが三の曲輪(三の丸)で、復元四脚門と塀が、その左下の伝逸見曲輪とを仕切っています。伝秩父曲輪と三の曲輪の奥側は階段状の石垣が続けて積まれています。マップを見れば、その外側は土塁と堀があって城外となりま
10三の丸の堀にかかる橋す。コジューローは石垣の上に登ってみました。しかしその外側は木がうっそうと茂っていて、良く分かりませんでした。でも内側は伝秩父曲輪、三の曲輪を見渡すことができます。<13>さらに石垣の上を歩いて三の曲輪の復元四脚門の上<14>まできました。すると四
11左:三の丸、右:伝秩父曲輪脚門の外の伝逸見曲輪はもとより、大手や弁天社跡方面、また今登ってきた二の曲輪まで見渡すことができました。広〜い!
 その広々とした景色をみて満足したコジューローは、もう行ったつもりになって、そちら方面を歩き回ることはやめに
12伝秩父曲輪の復元四阿(あずまや)(休憩所)して、本丸方面に行くことにしました。
 石垣を門の外側の虎口へと降りて、石段を上がって四脚門<15>をくぐり、塀沿いに歩いて二の丸方面に向かいます。先ほどの大きな空堀を、今度は反対側の端を迂回して、そのへんから車道に出て本丸方面に向かうもりでし
13伝秩父曲輪の池と三の丸復元四脚門た。しかし空堀と土塁を迂回するところまで行ったものの、車道との間にはずうっと柵があって、車道に出ることが出来ません。仕方なく土塁沿いに二の曲
輪の反対側まで歩き、もと来た城山稲荷神社の参道を戻って車道へと出ました。ですから、実はルート図はこの部
14土塁上より三の丸復元四脚門(左側:三の丸、右側:伝逸見曲輪)分が間違っています。ルート図では二の丸の東側の車道を歩いたように書かれていますが、ここは柵があって車道に出られず、正しいルートは二の丸の西側の土塁沿いの道(ルート図で見る白い道)を通って神社下まで歩き、参道を戻りました。ルート図を作成した後でこのことを思い出したのですが、修正するのが大変なので、この記事で訂正とさせて頂きます。
 鳥居をくぐって二の丸へ入ってきた時の車道に出ました。ここは北から来た
15復元四脚門(伝逸見曲輪側より)車道がぐぐっと西へ曲がっている所です。そのメイン道路とは別にそのまま南へ向かっている少し細めの車道があり三叉路になっています。先ほど歩いてこようとした車道はこの細めの車道のことです。そしてもう一本、遊歩道が東へ向かって少し戻るような形でこの三叉路につながっています。その道が歴史館から深沢川を渡ってエドヒガン桜の近くを通って歩いてきた道です。
 本丸エリアは、そこから見てメイン道路の北西側です。歴史館で手に入れたフィールドマップを見ると、ここからメイン道路を少し西の方へ行ったところに入口があるようですので、そちらに向かって歩きました。しかしど
16伝御殿曲輪より本曲輪へ向かうこまで行っても本丸エリア側には金網の柵があって、入口は見つかりません。金網の中を覗いても、うっそうとした森でよく分かりません。でも沢の様な、崖の様なと感じられるところがあり、マップで見る入口よりさらに西に来てしまっていることが分かり、しかたなく
17田山花袋の漢詩碑引き返すことにしました。まあこのメイン道路の左側一帯、柵の中が本丸のあるエリアだという事は分かっていますから、このままこの車道を歩いて行けば、どこかに入口があるはずです。
 そして漸く見つけました。小さな入口で何の案内板もないところですが、とにかく入って行きました。遊歩道のような道が少し右寄りに登っています。傍らに錆びた「史跡・鉢形城跡」のポスト<16>が立っていました。登りつめた所、ど
18本丸(本曲輪)うやらここが本丸<18>のようです。大きな石碑<17>があり、見ると田山花袋とあります。鉢形城本丸址の石碑<19>も見つけました。こちらのエリアは、二の丸、三の丸方面のエリアと違って、さほど整備された感じはなく、うっそうとした森の中という感じです。北西側が一
19本丸(本曲輪)番高くなっているようで、その先は崖、そしてそして下には荒川が流れています。コジューローはその崖沿いの道を歩いて搦め手へと出ました。
 搦め手には、石垣の遺構<21>があり、小さな広場の中央付近に鉢形城復元地形模型がありました。鉢形城の歴史の書かれた立て看板<20>があったのも、ここです。さて、ここまで来て鉢形城の主要な部分はほとんど見たと判断して、歴史館の駐車場へ帰ることにしました。帰り道は搦め手からメインの車道をそのまま南下し、例の三叉路の所から東の遊歩道に入って、そこからは来た道を引き返す形で駐車場へと戻りました。
 今思えば、深沢川の東側の外曲輪や土塁など、見どころもあったのではと思います。ですから駐車場への帰り道は、搦め手橋を渡って外曲輪
20鉢形城歴史(搦め手にあった立て看板)の外側の道を使って戻る手段もあったようです。でも、搦め手に着いた時点で既に歩き疲れていて、その余裕はなかったような気もしますし、その日は川越城にも行く予定でしたから、時間的余裕もなかったのかも知れません。

21搦め手の石垣以上で鉢形城登城記は、終わりです。

 歴史と登城記と合わせて、少々長い記事になりました。でも記事を書くことで、いろいろ調べたり考えたりして、鉢形城に対して今までにはなかった思いが、コジューローの中には芽生えてい
22日本100名城スタンプ18鉢形城るようです。再び鉢形城を訪れる機会があるかどうかは分かりませんが、もしもう一度行ったならば、一度目とはまた違う思いで城跡を歩くだろうと思います。

それでは、これにて。


23登城ルート図













24鉢形城地図











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