2015年06月07日
佐倉城
登城日2015年5月16日
久々のお城記事です。3年前、八王 ↓ 佐倉城址公園センター
子城の記事を書いて以来ですから本当に久々ですが、今回の佐倉城までの間にも。多くのお城、城跡に行きました。本来ならば順番に記事にしていくべき所なのですが、いろいろ大変なこともあって、先日行って来たばかりの千葉の佐倉城をUP致します。
(写真はクリックすると大きく見られます)
その時の旅行記事はこちら ⇒ 東関東・城跡と神社めぐりの旅
久々のお城記事です。3年前、八王 ↓ 佐倉城址公園センター
子城の記事を書いて以来ですから本当に久々ですが、今回の佐倉城までの間にも。多くのお城、城跡に行きました。本来ならば順番に記事にしていくべき所なのですが、いろいろ大変なこともあって、先日行って来たばかりの千葉の佐倉城をUP致します。
(写真はクリックすると大きく見られます)
その時の旅行記事はこちら ⇒ 東関東・城跡と神社めぐりの旅
佐倉城は、鹿島台地の西端、鹿島川と高崎川の合流地点の東側にあります。北は鹿島川が印旛沼に通じる低湿地が広がっていました。 戦国時代、千葉氏が築城を開始しましたが、完成には至らず、1610年(慶長15
年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成しました。
江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれ、城主は江戸幕府の要職に就くことが多かったようで、あの幕末の老中堀田 正睦も、佐倉藩の第5代藩主でし
た。ただ江戸時代初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易)の弟で堀田正俊の孫の堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいうらしい)後、安定したようです。
明治維新後に廃城令により建物は撤
去され、その後、帝国陸軍歩兵連隊隊の駐屯地となりました。
1962年(昭和37年)に市の史跡に指定され、現在は佐倉城址公園として整備されていて、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っています。
石垣は一切なく、比較的質素な城で
すが、土塁や空堀、角馬出跡、出丸跡と水堀などが残っています。
【コジューローの登城記】
佐倉城址公園センター前の空き地に車を駐車して、先ずは100名城スタンプをゲット。スタンプは城址公園セン
ターの中にあります。センターとは言っても、写真でご覧の様な小屋の様な建物で、中に入ると、そう広くない部屋に佐倉城に関する資料が展示されていました。中央にテーブルがあり、そこで地元の中学生と思しき女の子が二人、おしゃべりをしていました。壁際に置か
れた小さなテーブルの上に100名城スタンプがありましたので、持参したスタンプ帳を広げてペタン。
センターを出て公園内に入って行きます。雨がしょぼしょぼ降っていました。公園の案内図を見て、とりあえず本丸を目指します。
空堀を左に見ながら通過し、道の通りに林の中へと入って行きます。三の門跡、二の門跡、一の門跡を通過し、本丸へ出ました。三の門の内側が三の丸で、家老屋敷があったそうです。二の門の内側が二の丸で、藩政を執る役所があったそうです。そして一の門
の内側が本丸で、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていたとのこと。本丸は結構な広さで、周囲は土塁で囲われています。
奥に土塁の天守台跡があり、そこへ登ってみました。このあたりの土塁の外側は崖になっていて、下に水堀があ
るはずですが、上からは木が茂っていて見えませんでした。
天守台から下りて、本丸広場を突っ切って一の門跡を通り、来た道を引き返します。二の門跡を過ぎたところで右に行けば三の門跡ですが、ここを左に行って椎木門跡を通って角馬出し跡
にでました。角馬出しの外側には、空堀がきれいに整備されて残っています。この空堀の向こう側(外側)に、国立歴史民俗博物館があります。空堀を右側から迂回して、その博物館へと行きました。
流石国立、でっかいです。とても見切
れませんでしたので、見学順路の途中で出てきました。雨が上がっていました。博物館の前に駐車場があり、バスが停まっていました。
また城址公園に入って行きます。入ってすぐに左に折れる道に行き、姥ヶ池に出ました。一面、蓮の花がき
れいに咲いています。ここから、車を置いた城址公園センター前の空き地に出るつもりが、道を間違えて、くらしの植物苑の裏側の道(でも、開けていて色々な花畑‥咲いてませんでしたが‥のある気持ちの良い道)を通って公園の外に出てしまいました。でも間違えた
ことは分かったので、そのまま佐倉の町に出て昼食をとる事にしました。
昼食後、武家屋敷通りを歩き、大手門跡を通って、佐倉城址公園センター前の空き地に置いた車へと戻りました。
今、その時を振り返りながら、これを書いていますが、出丸跡と水堀を見忘れていたことが分かり、ちょっと残念な気分です。下調べがやや不十分だったかなと思います。
では、これにて佐倉城登城記を終了します。
関連記事 ⇒ 東関東・城跡と神社めぐりの旅
年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城が完成しました。
江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれ、城主は江戸幕府の要職に就くことが多かったようで、あの幕末の老中堀田 正睦も、佐倉藩の第5代藩主でし
た。ただ江戸時代初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易)の弟で堀田正俊の孫の堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいうらしい)後、安定したようです。
明治維新後に廃城令により建物は撤
去され、その後、帝国陸軍歩兵連隊隊の駐屯地となりました。
1962年(昭和37年)に市の史跡に指定され、現在は佐倉城址公園として整備されていて、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っています。
石垣は一切なく、比較的質素な城で
すが、土塁や空堀、角馬出跡、出丸跡と水堀などが残っています。
【コジューローの登城記】
佐倉城址公園センター前の空き地に車を駐車して、先ずは100名城スタンプをゲット。スタンプは城址公園セン
ターの中にあります。センターとは言っても、写真でご覧の様な小屋の様な建物で、中に入ると、そう広くない部屋に佐倉城に関する資料が展示されていました。中央にテーブルがあり、そこで地元の中学生と思しき女の子が二人、おしゃべりをしていました。壁際に置か
れた小さなテーブルの上に100名城スタンプがありましたので、持参したスタンプ帳を広げてペタン。
センターを出て公園内に入って行きます。雨がしょぼしょぼ降っていました。公園の案内図を見て、とりあえず本丸を目指します。
空堀を左に見ながら通過し、道の通りに林の中へと入って行きます。三の門跡、二の門跡、一の門跡を通過し、本丸へ出ました。三の門の内側が三の丸で、家老屋敷があったそうです。二の門の内側が二の丸で、藩政を執る役所があったそうです。そして一の門
の内側が本丸で、天守閣、銅櫓、角櫓、御殿が置かれていたとのこと。本丸は結構な広さで、周囲は土塁で囲われています。
奥に土塁の天守台跡があり、そこへ登ってみました。このあたりの土塁の外側は崖になっていて、下に水堀があ
るはずですが、上からは木が茂っていて見えませんでした。
天守台から下りて、本丸広場を突っ切って一の門跡を通り、来た道を引き返します。二の門跡を過ぎたところで右に行けば三の門跡ですが、ここを左に行って椎木門跡を通って角馬出し跡
にでました。角馬出しの外側には、空堀がきれいに整備されて残っています。この空堀の向こう側(外側)に、国立歴史民俗博物館があります。空堀を右側から迂回して、その博物館へと行きました。
流石国立、でっかいです。とても見切
れませんでしたので、見学順路の途中で出てきました。雨が上がっていました。博物館の前に駐車場があり、バスが停まっていました。
また城址公園に入って行きます。入ってすぐに左に折れる道に行き、姥ヶ池に出ました。一面、蓮の花がき
れいに咲いています。ここから、車を置いた城址公園センター前の空き地に出るつもりが、道を間違えて、くらしの植物苑の裏側の道(でも、開けていて色々な花畑‥咲いてませんでしたが‥のある気持ちの良い道)を通って公園の外に出てしまいました。でも間違えた
ことは分かったので、そのまま佐倉の町に出て昼食をとる事にしました。
昼食後、武家屋敷通りを歩き、大手門跡を通って、佐倉城址公園センター前の空き地に置いた車へと戻りました。
今、その時を振り返りながら、これを書いていますが、出丸跡と水堀を見忘れていたことが分かり、ちょっと残念な気分です。下調べがやや不十分だったかなと思います。
では、これにて佐倉城登城記を終了します。
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