2019年02月16日
大洲城
登城日2018年12月20日(木)
久々のお城記事です。今回は昨年12月の訪れた四国愛媛県にある大洲城です。12月23日に岡山のキャンドルコンサートに参加しました。その前に四国まで脚を延ばして行ってきました。実は昨年7月に、やはり岡山に行く行く用事があり、その時大洲へ行く予定でいました。しかし、大雨による災害で行くことができませんでした。そのリベンジもあり、あの時予約しておきながらキャンセルを余儀なくされた宿も取り直して行ってきました。
その旅行記事はまだ上げていませんが、長らく止まっているお城記事を復活させる意味で、大洲城の登城記事をUPします。
例によって画像(写真)はクリックすると大きく見られます。
では、「大洲城」の記事へと参ります。
久々のお城記事です。今回は昨年12月の訪れた四国愛媛県にある大洲城です。12月23日に岡山のキャンドルコンサートに参加しました。その前に四国まで脚を延ばして行ってきました。実は昨年7月に、やはり岡山に行く行く用事があり、その時大洲へ行く予定でいました。しかし、大雨による災害で行くことができませんでした。そのリベンジもあり、あの時予約しておきながらキャンセルを余儀なくされた宿も取り直して行ってきました。
その旅行記事はまだ上げていませんが、長らく止まっているお城記事を復活させる意味で、大洲城の登城記事をUPします。
例によって画像(写真)はクリックすると大きく見られます。
では、「大洲城」の記事へと参ります。
昨年の西日本豪雨では愛媛県の肱川(ひじかわ)が氾濫し、死者が出るほどの大災害となりました。お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りすると共に、遅ればせながら心よりお見舞い申し上げます。
さて、大洲城はその肱川のほとりの小高い丘の上にある平山城です。背後を流れる肱川を天然の堀として南側に二の丸、三の丸を配して堀をめぐらせた梯郭式縄張りの城郭です。別名、地蔵ヶ獄城とも亀城とも言われているそうです。
【歴史】
元弘元年(1331)、この地に最初に城を築いたのは宇都宮豊房とのこと。宇都宮氏は藤原氏の末裔で、豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられ、翌年大洲に入り、大洲の地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)を築城して初代城主になり、伊予宇都宮氏の本城とした。とウィキペディアにあります。1331年ですから鎌倉幕府末期ですね。
宇都宮氏が大洲に城を築いた際、肱川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」そこで神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになり、くじ引きで人柱になる者を決めることにしました。
このくじに当たったのが「おひじ」という娘で、「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になったとのこと。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたという伝説があります。
天正13年(1585)、羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
その後、天正15年(1587)戸田勝隆、文禄4年(1595)藤堂高虎、慶長14年(1609)脇坂安治が城主となり、元和3年(1617)加藤貞泰が米子より大洲に入城して6万石を領して、明治の廃藩置県まで代々加藤氏が所領しました。
明治21年(1888)天守が取り壊されましたが、大東亜戦争後の昭和28年(1953)大洲城が県指定史跡に指定され、昭和32年(1957)台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定されました。
その後、苧綿櫓の解体修理、三の丸南櫓の解体修理、台所櫓、高欄櫓の解体修理を経て、平成14年(2002)天守の復元工事が起工され、平成16年(2004)復元天守が完成しました。
天守の復元は、基礎から完工まで史実の考証を重ね、木材の選択、工法、木組、壁、瓦など外部はもとより内部に至るまで、当時の技術、工具にこだわって忠実に行われたとのことです。
【コジューローの登城記】
大洲城に行ったのは、昨年12月20日(木)です。冒頭でも書きましたが、7月に行く予定が洪水災害のため行けなくなり、12月20日にリベンジしました。
特急宇和島15号で伊予大洲駅に着いたのが13:58。宿は駅から徒歩7分ほどのところにあるホテルオータです。まだチェックインできる時間ではなかったので、ホテルに荷物を預け、身軽になって大洲城に向かいました。
ホテルから大洲城までは歩いて20分くらいです。肱川を渡り(橋の上から大洲城が見えましたのでズームでパチリ)、右へ折れて進むと大洲郵便局があり、その先を右に曲がると大洲市民会館がありました。ここはもう城内(城跡)ですね。
市民会館の前を左に曲がると城の白壁があり、見上げると天守閣がもう近くに見えました。白壁に沿って天守に向かって上ります。左折したところの正面に広場(二の丸)があり、中江藤樹の像がありました。像の前で振り返ると広い石垣の上に、天守と高欄櫓がで〜んと見えました。大洲城は天守と高欄櫓と台所櫓がつながった連結式天守ですが、この位置からは台所櫓は天守の向こう側なので見えません。
坂道を上り右へ折り返して石垣の上へと登って行きます。左手に本丸井戸廓、右手にもちょっとした廓があり、良い眺めです。ここからの天守と高欄櫓はなかなかの迫力です。
石垣の最上段にでました。左に高欄櫓、右に台所櫓、中央に天守という配置です。高欄櫓と台所櫓は国指定重要文化財です。天守は平成16年に往時のまま木造で復元されました。では中に入ります。
入り口の受付で100名城スタンプをゲット。復元天守の内部は、まだま新しい木材で歴史的建造物とは言えませんが、しかし昔のお城も築城当時はま新しい木材が使われていたはずですから、ここでは築城当時の城を目の当たりに見ることができます。築城のジオラマも展示されていてなかなか楽しいですね。天守最上階からの眺めを楽しんで、台所櫓、高欄櫓と内部を見て回りました。
天守を出て、一段下の天守裏側に回り、左から台所櫓、天守、高欄櫓という配置で見える場所で1枚写真を撮りました。もう少し離れた場所から撮れば格好良く撮れるのでしょうが、ここからではこれが精一杯でした。
大洲城跡を出て、南の方にあるお殿様公園に行きました。
ここからも天守が見えます。ここに三の丸隅櫓と旧加藤家住宅主屋があります。加藤家は旧藩主の子孫で、この屋敷は映画「男はつらいよ」のロケで使われたとのことです。
大洲城関係の見学はここまでで、この後は市内を散策して夕食を食べてからホテルに帰りました。帰りがけに、苧綿櫓(おわたやぐら)を見ておくのを忘れたのに気づきましたが、日も暮れていましたのであきらめました。ちなみに夕食は油屋と言うお店で炉端焼き。美味しくて大満足です。
以上で、大洲城登城記終了です。
さて、大洲城はその肱川のほとりの小高い丘の上にある平山城です。背後を流れる肱川を天然の堀として南側に二の丸、三の丸を配して堀をめぐらせた梯郭式縄張りの城郭です。別名、地蔵ヶ獄城とも亀城とも言われているそうです。
【歴史】
元弘元年(1331)、この地に最初に城を築いたのは宇都宮豊房とのこと。宇都宮氏は藤原氏の末裔で、豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられ、翌年大洲に入り、大洲の地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)を築城して初代城主になり、伊予宇都宮氏の本城とした。とウィキペディアにあります。1331年ですから鎌倉幕府末期ですね。
宇都宮氏が大洲に城を築いた際、肱川に面する高石垣が積んでも何度もすぐに崩れてしまうので、「これは神様の祟りに違いない」そこで神の怒りを鎮めるため高石垣の下に人柱を立てることになり、くじ引きで人柱になる者を決めることにしました。
このくじに当たったのが「おひじ」という娘で、「おひじ」は「この城下を流れる川に、どうか、私の名をつけてください」と言い残して人柱になったとのこと。そして出来上がった高石垣は二度と崩れることはなくなり、城も完成させることができたといいます。人々は「おひじ」の願いどおり、城名を「比地城」、川に比地川(今の肱川)という名をつけ、彼女の魂を慰めたという伝説があります。
天正13年(1585)、羽柴秀吉の四国平定後、道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
その後、天正15年(1587)戸田勝隆、文禄4年(1595)藤堂高虎、慶長14年(1609)脇坂安治が城主となり、元和3年(1617)加藤貞泰が米子より大洲に入城して6万石を領して、明治の廃藩置県まで代々加藤氏が所領しました。
明治21年(1888)天守が取り壊されましたが、大東亜戦争後の昭和28年(1953)大洲城が県指定史跡に指定され、昭和32年(1957)台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定されました。
その後、苧綿櫓の解体修理、三の丸南櫓の解体修理、台所櫓、高欄櫓の解体修理を経て、平成14年(2002)天守の復元工事が起工され、平成16年(2004)復元天守が完成しました。
天守の復元は、基礎から完工まで史実の考証を重ね、木材の選択、工法、木組、壁、瓦など外部はもとより内部に至るまで、当時の技術、工具にこだわって忠実に行われたとのことです。
【コジューローの登城記】
大洲城に行ったのは、昨年12月20日(木)です。冒頭でも書きましたが、7月に行く予定が洪水災害のため行けなくなり、12月20日にリベンジしました。
特急宇和島15号で伊予大洲駅に着いたのが13:58。宿は駅から徒歩7分ほどのところにあるホテルオータです。まだチェックインできる時間ではなかったので、ホテルに荷物を預け、身軽になって大洲城に向かいました。
ホテルから大洲城までは歩いて20分くらいです。肱川を渡り(橋の上から大洲城が見えましたのでズームでパチリ)、右へ折れて進むと大洲郵便局があり、その先を右に曲がると大洲市民会館がありました。ここはもう城内(城跡)ですね。
市民会館の前を左に曲がると城の白壁があり、見上げると天守閣がもう近くに見えました。白壁に沿って天守に向かって上ります。左折したところの正面に広場(二の丸)があり、中江藤樹の像がありました。像の前で振り返ると広い石垣の上に、天守と高欄櫓がで〜んと見えました。大洲城は天守と高欄櫓と台所櫓がつながった連結式天守ですが、この位置からは台所櫓は天守の向こう側なので見えません。
坂道を上り右へ折り返して石垣の上へと登って行きます。左手に本丸井戸廓、右手にもちょっとした廓があり、良い眺めです。ここからの天守と高欄櫓はなかなかの迫力です。
石垣の最上段にでました。左に高欄櫓、右に台所櫓、中央に天守という配置です。高欄櫓と台所櫓は国指定重要文化財です。天守は平成16年に往時のまま木造で復元されました。では中に入ります。
入り口の受付で100名城スタンプをゲット。復元天守の内部は、まだま新しい木材で歴史的建造物とは言えませんが、しかし昔のお城も築城当時はま新しい木材が使われていたはずですから、ここでは築城当時の城を目の当たりに見ることができます。築城のジオラマも展示されていてなかなか楽しいですね。天守最上階からの眺めを楽しんで、台所櫓、高欄櫓と内部を見て回りました。
天守を出て、一段下の天守裏側に回り、左から台所櫓、天守、高欄櫓という配置で見える場所で1枚写真を撮りました。もう少し離れた場所から撮れば格好良く撮れるのでしょうが、ここからではこれが精一杯でした。
大洲城跡を出て、南の方にあるお殿様公園に行きました。
ここからも天守が見えます。ここに三の丸隅櫓と旧加藤家住宅主屋があります。加藤家は旧藩主の子孫で、この屋敷は映画「男はつらいよ」のロケで使われたとのことです。
大洲城関係の見学はここまでで、この後は市内を散策して夕食を食べてからホテルに帰りました。帰りがけに、苧綿櫓(おわたやぐら)を見ておくのを忘れたのに気づきましたが、日も暮れていましたのであきらめました。ちなみに夕食は油屋と言うお店で炉端焼き。美味しくて大満足です。
以上で、大洲城登城記終了です。