2019年03月15日
宇和島城
登城日2018年12月22日(土)
大洲城に行った2日後、宇和島城に行きました。間の1日は河後森城に行きましたが、河後森城は続日本100名城の城なので、先に本来の日本100名城に認定されている宇和島城の登城記を書きます。登城日は2日後ですがブログUPは1ヵ月も開いてしまいました。
宇和島城の天守は現存12天守の一つで、愛媛県には松山城と二つの現存天守があります。そしてさらに香川県に丸亀城、高知県に高知城と、四国には4つの現存天守があり、今回の宇和島城で、四国の現存天守と100名城認定城郭すべて制覇しました。登城したけどまだブログUPしていない城が沢山ありますが、追々UPして行きます。
では、宇和島城の記事にかかります。例によって写真はクリックすると大きく見られます。
大洲城に行った2日後、宇和島城に行きました。間の1日は河後森城に行きましたが、河後森城は続日本100名城の城なので、先に本来の日本100名城に認定されている宇和島城の登城記を書きます。登城日は2日後ですがブログUPは1ヵ月も開いてしまいました。
宇和島城の天守は現存12天守の一つで、愛媛県には松山城と二つの現存天守があります。そしてさらに香川県に丸亀城、高知県に高知城と、四国には4つの現存天守があり、今回の宇和島城で、四国の現存天守と100名城認定城郭すべて制覇しました。登城したけどまだブログUPしていない城が沢山ありますが、追々UPして行きます。
では、宇和島城の記事にかかります。例によって写真はクリックすると大きく見られます。
【歴史】
平安時代の天慶4年(941) 藤原純友の乱で、 警固使の橘遠保がこの地に砦を構えたのが始めといいますから、かなり古い歴史ですね。
鎌倉時代の嘉禎2年(1236)、西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に砦程度の城を築いたとのこと。当時は丸串城と呼ばれていたそうです。
戦国時代に入って天文15年(1546)西園寺氏家臣・家藤監物が城主となり、大友氏や長宗我部氏の侵攻に耐え、天正3年(1575)監物が去り、西園寺宣久の居城になったとのことです。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となり、隆景家臣の持田右京が城代を務めました。天正15年(1587)、隆景が筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が城代となりました。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。慶長元年(1596)高虎が城の建造を開始し、慶長6年(1601)、現在の城郭が完成、宇和島城と名付けられました。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(現今治市)に移封が決まっていましたが、宇和島城の完成を見届けてから今治に移ったとのことです。
江戸時代に入って、慶長13年(1608)富田信高が伊勢国より転封。慶長18年(1613)信高が改易となり、徳川幕府直轄となり、高虎が代官となって良勝(高虎の従弟)が城代を務めたそうです。
慶長19年(1614)伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が10万石で入封し、翌年入城しました。
寛文2年(1662)2代藩主宗利が老朽化した城の改修に着手し、寛文11年(1671)に 改修竣工したとのことです。
明治になって、城は兵部省に帰属し、大阪鎮台の所管となったそうです。明治33年(1900)この頃より櫓・城門などが解体されましたが、昭和9年(1934)天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されました。
昭和12年(1937)12月21日、国により史跡に指定されました。管理団体は宇和島市とのこと。
昭和20年(1945)7月12日、大東亜戦争末期の宇和島空襲により大手門を焼失。
昭和24年(1949)伊達家が天守と城山の大半を宇和島市に寄贈し、宇和島市の管理下に置かれ、昭和25年(1950)文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定されました。
昭和35年〜37年(1960〜1962)天守を解体修理。
平成18年(2006)4月6日、日本100名城(83)に選定されました。
【コジューローの登城記】
12月22日朝、宇和島第一ホテルを出て「牛鬼すとりーと」と呼ばれているらしい通りを歩いて宇和島城へ向かいました。国道56号線とのT字路を右に行けば、桑折長屋門からの登城口はすぐ近くですが、あえて左に行き、立ち上がり門から登城することにしました。宇和島城はかつては海に面していて陸側は不等辺五角形の堀がめぐらされていたとのこと。国道56号線はその堀にそって5角形の内の3辺を通っています。2か所の曲がり角を過ぎて「立ち上がり門」に到着しました。
宇和島出身の幕末・維新の偉人、児島惟謙の像があります。門の左の掲示板に宇和島城の案内と共に古絵図と城内マップがあったのでパチリ。この案内図を基に今回の登城ルート図を作りました。
(記事ラストに掲載)
「立ち上がり門」をくぐり、階段を上がって行きます。少し上がったところに式部丸の石垣群があり、その先の代右衛門丸の石垣の横を抜けて、長門丸門跡の石垣を過ぎると長門丸に出ました。ここは児童公園になっています。
折り返すように右折して石垣沿いの階段を上がって行くと、城山郷土館の前にでました。ここの敷地が藤兵衛丸です。ここまで登ってくる間に雨が降っていたのかどうだったか・・・、天気があまり良くなかったのは覚えていますが、記憶がもう薄れてきています。ただこの城山郷土館の前の道がぬかるんでいたのは覚えていますし、この時雨が降っていて傘をさしていたような気がします。
城山郷土館には入らず通り過ぎてさらに上って行き、三の丸門跡まで来ました。この途中で井戸丸からの道と合流しているはずですが、気づきませんでした。(気づいていても忘れてしまったのか?)この辺りかなり立派な石垣です。突き当りを右に折れて二の丸へと上っていきます。振り返ると天守が間近に見えてきました。
二の丸門跡から天守をパチリ。二の丸の広場は、ロープで立ち入り禁止とされていました。
二の丸からさらに折り返すように階段を上がって行き、本丸に出ました。本丸広場の正面奥に三層の天守が、で〜ん・・というか、ちょこんというか、なんとも言えない雰囲気で、こちらを見て建っていました。「ようこそ、待ってましたよ。」とでも言っているかのようでした。開けた山の頂上に天守だけが居ました。手前に本丸の御殿の跡があります。振り返ると宇和島の入江が見えました。天守に近づいて写真を撮りました。そして天守も周りを一周してから天守に入りました。
宇和島城の最大の特徴である唐破風の玄関を入り、受付で先ず100名城スタンプをゲットし、それから中を見学しました。古い木造建築の現存天守は、やはり趣があります。最上階からの展望はどの天守閣でも魅力の一つです。
宇和島港方面をパチリ。
天守を出て、山を下ります。来た道を引き返すのですが、下りは井戸丸方面へと思っていたのですが、井戸丸への分岐を見逃してしまい、長門丸まで出てしまいました。長門丸に宇和島城の石碑があったのでパチリ。
長門丸の外側をぐるりと回るように歩いて下り、井戸丸からの石段を過ぎて櫛形門から城を出ました。この時は雨はすっかり上がっていたと記憶しています。
以上で宇和島城登城記は終了です。右の100名城スタンプは、
一回目インクを付け損なって押したため上手に押せませんでした。インクを付け直して別の紙に押し貼り付けました。
平安時代の天慶4年(941) 藤原純友の乱で、 警固使の橘遠保がこの地に砦を構えたのが始めといいますから、かなり古い歴史ですね。
鎌倉時代の嘉禎2年(1236)、西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、現在の城山に砦程度の城を築いたとのこと。当時は丸串城と呼ばれていたそうです。
戦国時代に入って天文15年(1546)西園寺氏家臣・家藤監物が城主となり、大友氏や長宗我部氏の侵攻に耐え、天正3年(1575)監物が去り、西園寺宣久の居城になったとのことです。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となり、隆景家臣の持田右京が城代を務めました。天正15年(1587)、隆景が筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城し、戸田与左衛門が城代となりました。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石を拝領し入城。慶長元年(1596)高虎が城の建造を開始し、慶長6年(1601)、現在の城郭が完成、宇和島城と名付けられました。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(現今治市)に移封が決まっていましたが、宇和島城の完成を見届けてから今治に移ったとのことです。
江戸時代に入って、慶長13年(1608)富田信高が伊勢国より転封。慶長18年(1613)信高が改易となり、徳川幕府直轄となり、高虎が代官となって良勝(高虎の従弟)が城代を務めたそうです。
慶長19年(1614)伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が10万石で入封し、翌年入城しました。
寛文2年(1662)2代藩主宗利が老朽化した城の改修に着手し、寛文11年(1671)に 改修竣工したとのことです。
明治になって、城は兵部省に帰属し、大阪鎮台の所管となったそうです。明治33年(1900)この頃より櫓・城門などが解体されましたが、昭和9年(1934)天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されました。
昭和12年(1937)12月21日、国により史跡に指定されました。管理団体は宇和島市とのこと。
昭和20年(1945)7月12日、大東亜戦争末期の宇和島空襲により大手門を焼失。
昭和24年(1949)伊達家が天守と城山の大半を宇和島市に寄贈し、宇和島市の管理下に置かれ、昭和25年(1950)文化財保護法の施行により天守が重要文化財に指定されました。
昭和35年〜37年(1960〜1962)天守を解体修理。
平成18年(2006)4月6日、日本100名城(83)に選定されました。
【コジューローの登城記】
12月22日朝、宇和島第一ホテルを出て「牛鬼すとりーと」と呼ばれているらしい通りを歩いて宇和島城へ向かいました。国道56号線とのT字路を右に行けば、桑折長屋門からの登城口はすぐ近くですが、あえて左に行き、立ち上がり門から登城することにしました。宇和島城はかつては海に面していて陸側は不等辺五角形の堀がめぐらされていたとのこと。国道56号線はその堀にそって5角形の内の3辺を通っています。2か所の曲がり角を過ぎて「立ち上がり門」に到着しました。
宇和島出身の幕末・維新の偉人、児島惟謙の像があります。門の左の掲示板に宇和島城の案内と共に古絵図と城内マップがあったのでパチリ。この案内図を基に今回の登城ルート図を作りました。
(記事ラストに掲載)
「立ち上がり門」をくぐり、階段を上がって行きます。少し上がったところに式部丸の石垣群があり、その先の代右衛門丸の石垣の横を抜けて、長門丸門跡の石垣を過ぎると長門丸に出ました。ここは児童公園になっています。
折り返すように右折して石垣沿いの階段を上がって行くと、城山郷土館の前にでました。ここの敷地が藤兵衛丸です。ここまで登ってくる間に雨が降っていたのかどうだったか・・・、天気があまり良くなかったのは覚えていますが、記憶がもう薄れてきています。ただこの城山郷土館の前の道がぬかるんでいたのは覚えていますし、この時雨が降っていて傘をさしていたような気がします。
城山郷土館には入らず通り過ぎてさらに上って行き、三の丸門跡まで来ました。この途中で井戸丸からの道と合流しているはずですが、気づきませんでした。(気づいていても忘れてしまったのか?)この辺りかなり立派な石垣です。突き当りを右に折れて二の丸へと上っていきます。振り返ると天守が間近に見えてきました。
二の丸門跡から天守をパチリ。二の丸の広場は、ロープで立ち入り禁止とされていました。
二の丸からさらに折り返すように階段を上がって行き、本丸に出ました。本丸広場の正面奥に三層の天守が、で〜ん・・というか、ちょこんというか、なんとも言えない雰囲気で、こちらを見て建っていました。「ようこそ、待ってましたよ。」とでも言っているかのようでした。開けた山の頂上に天守だけが居ました。手前に本丸の御殿の跡があります。振り返ると宇和島の入江が見えました。天守に近づいて写真を撮りました。そして天守も周りを一周してから天守に入りました。
宇和島城の最大の特徴である唐破風の玄関を入り、受付で先ず100名城スタンプをゲットし、それから中を見学しました。古い木造建築の現存天守は、やはり趣があります。最上階からの展望はどの天守閣でも魅力の一つです。
宇和島港方面をパチリ。
天守を出て、山を下ります。来た道を引き返すのですが、下りは井戸丸方面へと思っていたのですが、井戸丸への分岐を見逃してしまい、長門丸まで出てしまいました。長門丸に宇和島城の石碑があったのでパチリ。
長門丸の外側をぐるりと回るように歩いて下り、井戸丸からの石段を過ぎて櫛形門から城を出ました。この時は雨はすっかり上がっていたと記憶しています。
以上で宇和島城登城記は終了です。右の100名城スタンプは、
一回目インクを付け損なって押したため上手に押せませんでした。インクを付け直して別の紙に押し貼り付けました。