2019年04月21日

河後森城

登城日:平成30年(2018)12月21日(土)
 平成29年(2017)に日本城郭協会により続日本100名城が選定されました。日本100名城が選定されたのが平成18年(2006)ですから、約10年経って、100名城を制覇された方も相当いらっしゃると思います。そこで城郭協会としては次の100名城として続日本100名城を選定したのだろうと思いますが、コジューローとしても、100名城に選定されていない良く知られた城郭がまだまだ沢山ある事から、嬉しく思います。コジューローが日本100名城めぐり(スタンプラリー)を始めたのが平成20年(2008)でした。数えてみたら今現在で67城を攻略?しました。100名城制覇までまだまだですが、続100名城にも行く機会が出てきましたので、今回はその初回として河後森城をUPします。01JR松丸駅(実は続日本100名城としては、地元の石垣山城へ先に行ったのですが、スタンプはゲットしたもののカメラを忘れ写真がないので、また行ったときに写真を撮ってブログにUPしようと思っています。)例によって写真はクリックすると大きく見られます。
 

02河後森城跡案内マップ 河後森城は、四国愛媛県の宇和島からJR予土線で山の方へ少し入った、松野町という所にあります。最寄りの駅はJR予土線の松丸駅です。付近には四万十川の支流、広見川が流れ、さらにその支流、堀切川と鰯川に囲まれた独立丘陵上に河後森城があります。城域は20ヘクタール以上。本郭を中心に大小さまざまな曲輪が馬蹄状(U字型)に広がっています。(写真:02河後森城跡案内マップ もしくは 画像:今回の登城ルート2 参照)石垣は少なく、元々の地形を利用した土作りの中世の城の特徴を良く残しています。城跡を歩いて、箱根の山中城とちょっと雰囲気が似てるなとコジューローは感じました。
03風呂ヶ谷駐車場(登城口)より 河後森城は、戦乱の時代、伊予(愛媛)と土佐(高知)の国境の要所として築かれた中世山城跡、とパンフレットに書かれています。
 では河後森城の歴史から見て行きましょう。

【歴史】
 築城年代は不明とのこと。
04井戸/手書き案内板 16世紀、この地域は黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれ、伊予と土佐の国境地帯にあって、土佐一条氏と長宗我部氏による度重なる戦闘の舞台だったそうです。当時の城主として文献に載っているのが、土佐一条氏からの養子、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)で、天正12年(1584)頃まで、この地域は長宗我部氏の配下となった可能性が高いとのことです。
05井戸 天正13年(1585)の秀吉による四国平定後は、河後森城のある松野町を含む宇和島郡一帯が、小早川氏、戸田氏、藤堂氏、冨田氏の所領となり、その間それぞれに城代が置かれていたようです。藤堂の時代に、河後森城の天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移築されたとも言われています。
06西第十曲輪の門 元和元年(1615)、徳川幕府による一国一城令により廃城とされていますが、その後も伊達氏入封時には、付家老・桑折氏が居住したと伝えられています。
 河後森城は、予土国境の城として重要な役目を担い、長年機能していたという事ですね。

【コジューローの登城記】
07西第十曲輪門の手書き案内板 河後森城に行ったのは、大洲城に行った翌日であり、宇和島城へ行った前日でした。実はこの2つの城には夏に行く予定で、その時には河後森城は予定していませんでした。その予定が水害でダメになり、その後、続日本100名城の事を知り、12月のリベンジの際、河後森城を加えました。
08西第十曲輪より西第九、八、七曲輪を見る 朝大洲を立って、宇和島からJR予土線、「河童うようよ号」という奇妙な(楽しい)電車に乗って松丸駅に到着したのが10:23でした。きれいな松丸駅の待合で身支度を整え、コインロッカーがないので親切な駅のおばさんに荷物を預けて、出発しました。雨模様ですが、とりあえず雨は落ちてきていないので、このまま降られずに城跡めぐりが出来たら良いなと思います。
09西第十曲輪の掘立柱建物 駅を出てまっすぐ進み、突き当りの古い建物の酒造を右に曲がり・・・「野武士」というお酒の銘柄にピクピクしましたが・・・ちょっと先を左に折れて松野西小学校の方へ行きます。石碑のところから左に入って行けば、本郭までの最短コースですが、今回は風呂ヶ谷駐車場方面から城跡に入るコースを選びました。松野西小学校を右に見ながらぐるっと回って、突き当りを左に折れて車道を登って行きます。道の左側の山が河後森城跡です。Y字路を左へ、そして道標に従って風呂ヶ谷駐車場に着きました。
10西第十曲輪の掘立柱建物内のペーパー馬 河後森城跡案内マップという大きな立て看板があったので、それを確認して城跡内に入って行きす。新城へ行く分岐、続いて古城へ行く分岐がありましたが、まっすぐ本郭へ続く曲輪群を目指します。
 井戸(跡)がありました。水が溜まっています。少し前に行った石垣山城の井戸と似た雰囲気でした。手書きの案内板がありました。汚れていましたが、何だか親しみを感じたのでパチリ。この手書きの案内板が結構あちらこちらにあり、手作りのほほえましさを感じました。
11西第二曲輪より本郭を見る 急なつづら折りの上り道を登ると、木の門があり、その向こうに空が見えました。山の稜線に出たようです。門をくぐるとそこが西第十曲輪でした。掘立柱建物とある木造があり、中には何とペーパークラフトの馬が2頭も居ました。そしてここに続100名城スタンプが置いてありました。スタンプゲットです。しばし休憩。
12本郭の主殿舎跡 木の小さな階段を上がった平らな所が西第九曲輪、手すりのある階段を上がった所が西第七曲輪です。そこから先は曲輪群の横を通る細い道を進みます。西第三曲輪と西第二曲輪の間にさほど大きなものではありませんが堀切がありました。
 西第二曲輪に出て、次の台地が本郭です。本郭と西第二曲輪との間にも小さな堀切があり、本郭には小さく石垣がありました。
13本郭の手書き案内板 本郭は河後森城で一番高い所にあり、発掘調査で沢山の建物や門の跡が発見されているとのこと。城主の居所である主殿舎と台所の間取りが再現されていて、ここで武家儀礼の再現ワークショップが催されたようです(ご免なさい、どういうものか良く知りません)。例の手書きの案内板がありましたのでパチリ。本郭からの松丸駅方面の眺めはなかなかももので、ここもパチリ。
14本郭より松丸駅方面を望む 本郭から東第三曲輪方面へ下ります。雨も降ってきたので、この辺で城山を下ろうと思ったのですが、広々とした東第三曲輪を気持ちよくまっすぐ歩いてしまって、古城との間の堀切まで来てしまいました。この堀切には門がありますが、堀切に降りて門をくぐって行く下山ルートがあるかどうかは解りません。堀切を隔てた向こう側の古城へ登れば、そこからの眺望も良いとパンフレットにありましたが、引き返して東第二曲輪と東第三曲輪の間からの下山ルートを下ることにしました。
続100名城スタンプ「河後森城」 森の中を抜け、松野西小学校近くのあの石碑のところへ出ました。ここから来た道を逆にたどって松丸駅に帰ってきました。松丸駅には温泉があり(ぽっぽ温泉)、無料で利用できる足湯もあるので、列車の待ち時間、足湯でのんびりと山城歩きの疲れを癒しました。
 以上で、河後森城登城記終了です。

今回の登城ルート1

今回の登城ルート2

河後森城地図1



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