● 北陸・東海 の城
2010年05月05日
山中城
登城日2009年9月21日
先日予告しました通り、上げていなかったお城をUPします。
1発目は、山中城です。
《山中城見学ルート図》(クリックすると大きく見れます)
山中城は、箱根山麓、国道1号線を三島へ下る途中にある山城で、箱根山ではありますが静岡県になります。
戦国北条氏の出城で、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めで落城し、その後廃城となりましたが、昭和9年(1934)国指定史跡になり、
現在は山中城跡公園としてきれいに整備されています。
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先日予告しました通り、上げていなかったお城をUPします。
1発目は、山中城です。
《山中城見学ルート図》(クリックすると大きく見れます)
山中城は、箱根山麓、国道1号線を三島へ下る途中にある山城で、箱根山ではありますが静岡県になります。
戦国北条氏の出城で、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めで落城し、その後廃城となりましたが、昭和9年(1934)国指定史跡になり、
現在は山中城跡公園としてきれいに整備されています。
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2008年05月08日
大垣城
5月4日 大垣城に行ってきました。
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。〔竹腰尚綱が明応9年(1500)に築いたという説もあります。〕
関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。
その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。
昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなりました。
総塗ごめ様式の、たいへん優美な城として名高い城です。
天守に上ると濃尾平野が一望できます。
東に岐阜城のある金華山、西に関が原とその周辺の山並み。
石田三成は、ここで岐阜城の落ちるのを見て、関が原での決戦を決意したのだろうなあ・・と、感じました。
東軍を迎え撃つ最前線とした岐阜城が、あっけなく落ちるのを見て、三成は何を思ったでしょうか・・。
コジューローは前日、岐阜城に登っていたこともあって、そのことがとても気になり、また印象的な眺めでした。
岐阜から大垣へ向かう途中、ガソリンスタンドの人が親しげに話しかけてきました。
横浜出身とのことで、コジューローの湘南ナンバーに懐かしさでも感じたのでしょうか。
どこ行くの?と聞かれたので、大垣城と答えると、あそこはつまらんよ!行くなら彦根か長浜だね!と言われちゃいました。
まあ鉄筋コンクリートのお城ですからねえ。
でも昭和20年まで国宝のお城があったわけで、外見は忠実に再現されているはずです。
中の展示もなかなか面白かったですヨ。
特に関が原に関するDVD解説。大変興味深く解りやすく、良くできていました。
このDVD解説、コンテンツが沢山あり、時間の関係で一部しか見ませんでしたが、また出かけて行って、全部をじっくり見てみたいものです。
鉄筋コンクリートのお城も、捨てたものではない。
ここにも歴史があり、語りかけてくれるのだから。
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。〔竹腰尚綱が明応9年(1500)に築いたという説もあります。〕
関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。
その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。
昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなりました。
総塗ごめ様式の、たいへん優美な城として名高い城です。
天守に上ると濃尾平野が一望できます。
東に岐阜城のある金華山、西に関が原とその周辺の山並み。
石田三成は、ここで岐阜城の落ちるのを見て、関が原での決戦を決意したのだろうなあ・・と、感じました。
東軍を迎え撃つ最前線とした岐阜城が、あっけなく落ちるのを見て、三成は何を思ったでしょうか・・。
コジューローは前日、岐阜城に登っていたこともあって、そのことがとても気になり、また印象的な眺めでした。
岐阜から大垣へ向かう途中、ガソリンスタンドの人が親しげに話しかけてきました。
横浜出身とのことで、コジューローの湘南ナンバーに懐かしさでも感じたのでしょうか。
どこ行くの?と聞かれたので、大垣城と答えると、あそこはつまらんよ!行くなら彦根か長浜だね!と言われちゃいました。
まあ鉄筋コンクリートのお城ですからねえ。
でも昭和20年まで国宝のお城があったわけで、外見は忠実に再現されているはずです。
中の展示もなかなか面白かったですヨ。
特に関が原に関するDVD解説。大変興味深く解りやすく、良くできていました。
このDVD解説、コンテンツが沢山あり、時間の関係で一部しか見ませんでしたが、また出かけて行って、全部をじっくり見てみたいものです。
鉄筋コンクリートのお城も、捨てたものではない。
ここにも歴史があり、語りかけてくれるのだから。
犬山城
5月3日 犬山城へ行ってきました。
犬山城は別名白帝城とも呼ばれています。
(白帝城の命名は江戸時代の儒者荻生徂徠とのこと)
国宝に指定されている4つの城の一つです。
(他の3つは松本城、彦根城、姫路城)
戦国時代 、1537年(天文6年)現在の位置に天守が造営され、織田与次郎信康(織田信長の叔父)が城主となりました。
その後、何代か城主が変わりましたが、関ヶ原合戦の前後、石川氏、小笠原氏の手によって近世の犬山城が完成されました。
徳川時代、尾張家の徳川義直の付家老であった成瀬隼人正正成が城主となってから、代々成瀬家の子孫に受け継がれてきました。
1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となりましたが、1891年(明治24年)の濃尾震災により、大きな被害を受け、当時の所有者であった愛知県から、城の修復や保存などを条件に、1895年(明治28年)旧犬山藩主成瀬正肥(成瀬家九代)へ無償譲渡されました。修復には、多くの犬山町民の浄財があてられたそうです。
1935年(昭和10年)国宝に指定されましたが、1952年(昭和27年)文化財保護法により天守閣が国宝に再指定されました。1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)の解体修理の工事以来、成瀬家と犬山市の間に管理委託契約が結ばれ、犬山市が管理を請け負っています。
平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は成瀬家から財団法人になりました。
以上がお城の歴史の説明です。
やはり国宝級になると、どうやってここまで生き延びてきたか、知ったかぶりの披露で長くなります。
(あっ、でも姫路城や備中松山城のときは説明なしでしたねえ・・気分でしょうか)
ゴールデンウィークとあって、人出も多く、いまひとつじっくりと味わう事は出来ませんでしたが、確かに本物のお城を見てきました。
ここならまた来る事もあるでしょう。その時にはじっくりと味わってみたいものです。
天守最上階に、成瀬氏初代城主から歴代城主の肖像画と写真が、掲げられていました。鼻に特徴のある顔で、初代の絵の鼻と現代の写真の鼻が同じかたちである事に、血の繋がりを感じ、なんだか感動しました。
犬山城は別名白帝城とも呼ばれています。
(白帝城の命名は江戸時代の儒者荻生徂徠とのこと)
国宝に指定されている4つの城の一つです。
(他の3つは松本城、彦根城、姫路城)
戦国時代 、1537年(天文6年)現在の位置に天守が造営され、織田与次郎信康(織田信長の叔父)が城主となりました。
その後、何代か城主が変わりましたが、関ヶ原合戦の前後、石川氏、小笠原氏の手によって近世の犬山城が完成されました。
徳川時代、尾張家の徳川義直の付家老であった成瀬隼人正正成が城主となってから、代々成瀬家の子孫に受け継がれてきました。
1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となりましたが、1891年(明治24年)の濃尾震災により、大きな被害を受け、当時の所有者であった愛知県から、城の修復や保存などを条件に、1895年(明治28年)旧犬山藩主成瀬正肥(成瀬家九代)へ無償譲渡されました。修復には、多くの犬山町民の浄財があてられたそうです。
1935年(昭和10年)国宝に指定されましたが、1952年(昭和27年)文化財保護法により天守閣が国宝に再指定されました。1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)の解体修理の工事以来、成瀬家と犬山市の間に管理委託契約が結ばれ、犬山市が管理を請け負っています。
平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は成瀬家から財団法人になりました。
以上がお城の歴史の説明です。
やはり国宝級になると、どうやってここまで生き延びてきたか、知ったかぶりの披露で長くなります。
(あっ、でも姫路城や備中松山城のときは説明なしでしたねえ・・気分でしょうか)
ゴールデンウィークとあって、人出も多く、いまひとつじっくりと味わう事は出来ませんでしたが、確かに本物のお城を見てきました。
ここならまた来る事もあるでしょう。その時にはじっくりと味わってみたいものです。
天守最上階に、成瀬氏初代城主から歴代城主の肖像画と写真が、掲げられていました。鼻に特徴のある顔で、初代の絵の鼻と現代の写真の鼻が同じかたちである事に、血の繋がりを感じ、なんだか感動しました。